上石原風土記
近藤勇ゆかりの地 上石原

○新選組局長 近藤勇の生誕地「上石原」
幕末の動乱期に活躍した新選組局長近藤勇は天保5年10月に武蔵の国多摩郡上石原村(現在の調布市野水1−6)豪農 宮川久次郎の三男として誕生しました。幼名は勝五郎、
一見は怖そうに見えたが、根は優しく人一倍冷静沈着で勇気があったと言われていました。江戸時代は将軍の直轄地でしたので、旧武田家の遺臣達の流れを継ぐ「八王子千人同心」等、この地に住む人々は江戸防衛のために文武に関心がありました。勇の父、宮川久次郎も文武に関心をもち、子供達にも天然理心流の剣客、近藤周助に稽古を受けさせました。

○宮川家から近藤家の養子になる。
この様な土地柄と環境で育った勝五郎は近藤周助の指導により、剣の上達が著しく、15歳で師範の代稽古を勤め、16歳で近藤周助の養子になる。元服して近藤勇昌宣と名乗りました。28歳で文久元年には天然理心流の宗家四代目を襲名し、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。

○新選組結成へ参加。
近藤道場「試衛館」は江戸柳町にありましたが、天然理心流の理解者や支援者が多摩に多く、江戸では北辰一刀流など有名流派があり、「多摩の芋剣術」と軽視されていました。
天然理心流を天下に知らしめる機会として近藤勇・土方歳三・沖田総司など近藤一門は、文久3年に幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き、「会津藩お預かり新選組」を結成した。その後、局中法度といわれる厳しい掟を定め組織を固め、芹沢鴨一派の粛正をした後に近藤勇は局長となり、浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府や朝廷から恩賞を受けた「池田屋事件」などの活躍は有名です。

○近藤勇は討幕へと流れが進む中「忠誠心」をつらぬく。
尊皇攘夷から討幕へと時代は変わりつつあるなかで、近藤勇は徳川に対する忠誠の信念をつらぬきました。しあし、慶應3年、徳川慶喜は大政奉還し、慶應4年に鳥羽伏見の戦いに破れ、隊士とともに幕府艦富士山丸で江戸に戻りました。

○上石原若宮八幡神社に戦勝を祈願する。
慶應4年に近藤勇は徳川慶喜より許され、大名として大久保剛と改名し、負戦とは承知したうえで甲陽鎮撫隊を編成して甲府に出陣しました。途中、幼少の頃の思いで深い故郷上石原では、近藤勇の生家の氏神様でありました上石原若宮八幡神社に向かって戦勝を、旧甲州街道下石原から上石原に入った源正寺角で祈願した。その後、西光寺境内で休憩をし、多くの村人に見送られてたと言われております。
 この場所は当社、(株)高橋商事資産管理オフィスの旧事務所前であります。

○近藤勇35歳で生涯を閉じる。
天下に知られた英雄が故郷へ錦を飾ることはできましたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いにも敗れ、慶應4年4月に下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同年4月25日に板橋で処刑され、35歳の波瀾万丈生涯を閉じました。首は京都・大阪で晒されたと言われてますが、遺体は発掘され三鷹市にあります龍源寺に墓があります。西軍の有馬藤太は大久保大和として投降してきた男が近藤勇と知りつつ、武士道を貫いて幕府の忠誠に殉じた近藤勇を、勝者敗者の立場をこえて英雄と称え敵の大将として処遇し助命嘆願までしました。又、動乱の時期苦楽を共にした京都守護職会津藩主松平容保より貫天院殿純忠誠義大居士の法名が送られた。

○近藤勇の生家(宮川家の見取り図)
近藤勇の生家宮川家は甲州街道上石原宿の北方2,4キロにある人見街道と小金井に通じる辻にありました。屋敷の広さは約2,120坪、主屋のほかに蔵屋敷、乾燥納屋、地下倉、農具入納屋兼道場がありました。庭内には築山があり、屋敷の周囲にはけやきや樫が植えられ、裏手には竹林がありました。
 昭和14年、陸軍の飛行訓練場と利用するために、調布に飛行場建設することになり、調布町・三鷹村・多磨村にわたる53万坪の土地を買収し、昭和16年に完成いたしましたが、昭和18年1月に宮川家に調布飛行場本部から呼び出しがあり、飛行機の発着に不便なので屋敷を壊されてしまいました。